コーヒーの知識 Vol.7 – 世界のコーヒーの歴史
コーヒーは書物等に残る記録よりもはるか昔から、人々によって栽培されていたと言われています。今回は、コーヒーの起源であるエチオピアから、世界中で生産・消費されるようになるまで、どのような流れや背景があったのか、その歴史をご紹介したいと思います。
コーヒー栽培のはじまりと伝搬
コーヒーの歴史は古く、9世紀頃にはコーヒーの実が食されていたという記録や、その遥か昔、氷河期から育っていたのではないかという説もあるほどです。エチオピアの西部にあるカッファ(=KAFFA)というエリアに生えていたことから、この地名がコーヒーの語源となりました。人々の居住区が東や南に広がっていくのに従って、コーヒーの木の栽培も広がっていき、今ではイルガチェフェを代表とするエチオピア南部での生産が多くなっています。
コーヒーの需要が高まるにつれ、15世紀には中東のイエメンでコーヒーが栽培され、その後他の国でもコーヒー栽培の競争が激しくなっていきます。17世紀後半にはオランダが中東地域からコーヒーの苗を手に入れることに成功し、植民地で栽培を試みました。インドでの栽培は失敗しましたが、インドネシアのジャワ島北西部にあるバタヴィア(現在の首都ジャカルタ)での栽培は成功となりました。インドネシアの他の島、スマトラ島やスラウェシ島などにも栽培は拡大し、オランダを軸としたコーヒーの取引が盛んになっていきました。こうした意味でもアジアは実はコーヒー栽培の歴史的にも非常に意味のある地域なんです。
中南米での生産のはじまり
1706年にジャワ島からオランダのアムステルダムへと持ち込まれたコーヒーの苗木が、後に世界のコーヒー栽培に非常に大きな影響を与えることとなります。1714年、アムステルダム市長が交流のあったフランス国王ルイ14世にコーヒーの若木を贈り、その木はパリの王立植物園で保管されました。そして1723年にはフランス海軍士官のガブリエル・ド・クリューが国外で新たにコーヒーの木の栽培をはじめようと王立植物園から苗木を持ち出し、困難な航海を経て南米大陸の北、カリブ海浮かぶマルティニーク島へと辿り着きます。この島はジャワ島に気候が非常に近いこともあり、ここに植えたコーヒーの木の栽培は大成功しました。この時のコーヒーの木は、「普遍的な」という意味を持つ「ティピカ(Typica)」と名付けられました。ティピカは1730年代にはジャマイカ、ドミニカに、その後キューバからコスタリカ、エルサルバドルへと広がっていきました。また、オランダの苗木は別ルートでブラジルにも渡り、ペルー、パラグアイ、メキシコ、コロンビアなどにも伝わり、最終的には中米全域で栽培が行われることとなっていきます。
東アフリカへの広がり
インド洋に浮かぶ、当時のフランス領ブルボン島 (現在のレユニオン島)では1715年から1718年にかけてフランス人宣教師がイエメンから持ち込んだコーヒーが栽培されるようになります。そして島の名前を由来とする甘さが特徴的な「ブルボン」という品種は、1893年にカトリック宣教師の手によって東アフリカの地域に持ち込まれていきます。持ち込まれた経緯から「フレンチミッション」とも呼ばれたコーヒーの木はケニアにも渡り、イギリスの植民地下で栽培が広がり、現在のように世界有数のコーヒー生産地となっていきました。
コーヒー消費の歴史:イスラムでの伝搬
エチオピアではかつて、コーヒーの種を煮て食べていました。やがてアラビア半島へと渡り、9世紀ごろにはコーヒーの種を乾燥させたものをすりつぶして熱湯で煮出す形で楽しまれるようになります。これはイスラム神秘主義の修道者の中では秘薬として、徹夜で行う瞑想や祈りのときの眠気覚ましとして使われていました。やがてこの飲み物はその覚醒効果から「カフワ」(=qahwahワインを指す言葉。欲を減衰させるという意味)と呼ばれました。やがて、偶然事故により豆が焼かれた時に出た香りが大変良い香りだったことをきっかけとし、コーヒー豆は焙煎されるようになりました。そして、13世期になると焙煎豆を煮出す形で多くの人に楽しまれるようになりました。
1517年、オスマン皇帝セリム1世によるエジプト遠征の際に、カフワはトルコに渡り、トルコ語でカフヴェ(=kahve)と呼ばれるようになり広がりました。その後1550年代にはイスタンブールにコーヒーの店舗「カフヴェハネ」(直訳するとコーヒーハウス)も誕生し、庶民や知識人が集まって語り合ったり、詩などの文学作品の朗読会を行う社交の場として広まりました。政治の議論の場にもなり、権力者から弾圧を受けたり、カフヴェがワインと同種の飲み物であると公式に分類された後も、コーヒーの消費は増え続けていきました。
ヨーロッパへの広がり
イギリスでは1650年にオクスフォードでコーヒーハウスが誕生、1652年にはロンドンにも開業しましたコーヒーハウスでは、コーヒー片手に新聞や雑誌を読んだり、階層秩序を越えて客同士で政治談議や世間話をしたりしていました。 こうした談義や世間話は、近代市民社会を支える世論を形成する重要な空間となり、イギリス民主主義の基盤としても機能したと言われています。 その後コーヒーハウスの数はどんどん増えていき、17世紀末には3000軒にものぼる数が存在していたと言われています。1671年にはマルセイユにフランス最初のコーヒーハウスが開業し、オーストリア、ドイツ、イタリアなどヨーロッパ中に広がっていきました。コーヒーは当時の朝食によく飲まれていたビールやワインに取って代わるようになりました。お酒の代わりにコーヒーを飲んだ人は、一日を元気に過ごすことができ、仕事の質も格段に向上したようです。現代のオフィスでコーヒーを飲みながら仕事を行う、先駆けとも言えるかもしれません。
アメリカへの広がり
アメリカには17世紀中頃にコーヒーが持ち込まれました。1683年頃にニューヨークはコーヒー豆の国際的な取引場となり、ニューヨーク、ボストンでも続々とコーヒーハウスが開店していきました。1773年には、イギリス東インド会社が紅茶の貿易に重い税金を課すことで貿易を独占しようとし、それに反対してボストンの人々が反乱を起こしました。ボストン茶会事件と呼ばれるこの反乱をきっかけとして、アメリカ人はイギリス東インド会社が独占していた紅茶ではなく、コーヒーを好んで飲むようになりました。そして、米英戦争の影響でアメリカ国内に入ってくる紅茶の量が激減すると、国民は一気にコーヒーへと視線を向けました。アメリカの独立後、カリブ海のマルティーニ諸島、ハイチ、南米のブラジルから大量のコーヒーが流入してきたことでコーヒーは一気に普及し始めました。